新しい茶葉に六十度のお湯を注ぎ、一杯目のお茶を出します。
このお茶は甘い。
同じ茶葉で、甘いお茶が出たあとの二杯目を、十度高い七十度ぐらいのお湯を注ぐと、今度は渋みが出ます。
そしてさらに十度高い八十度ぐらいのお湯で三杯目を出すと、今度はお茶の苦い部分が出てくる。
さらに、九十度以上の熱いお湯で四杯目を出すと、もう甘味もなく、渋みもなく、苦みもない、色だけのお茶が出ます。
これが出がらしです。
千利休は、この四杯目以降のお茶、
甘味もなく、渋みもなく、苦みもない、かすかに色が付いているだけの茶の味を、「淡味(たんみ)」と呼びました。
「淡々と」の「淡」です。
淡々とは、"水が静かに揺れ動く"という意味で、静かに安定している状態です。
利休は、出がらしのお茶のおいしさがわかるようになれと言った。
じつはこの出がらしのお茶のおいしさとは、「感謝」です。
茶道はお茶をいかにおいしく淹れるか、いかにおいしく味わうかの道ですが、それを甘い、渋いと言っている間は、まだ本質がわからない。
お茶をたしなむ上で、器が良いとか、作法がどうとか、茶葉がどうとか、おいしいとかまずいなどと言っているうちは、まだまだなのだと利休は言いたかった。
これを人生に置きかえていえば、
朝起きて、仕事をして、帰ってきて、夕食を食べて、テレビを見て、寝て、また翌朝が来て、また仕事をして、また夕食を食べて...
とそういう日々が繰り返されるなかに、人生のおもしろさや、幸せや、贅沢感というのがある。
淡々と生きていくなかにこそある。
人生を、やれ楽しいの愉快のとはしゃいで、「どこそこに行ったからおもしろかった」「あそこに行ったからステキだった」などと言っている限り、本当の人生はわからない。
淡味がわからない限り、人生は永久にわからない、ということです。
「人生の本質は、淡味にあり」です。
「淡々と生きる」ことです。
小林正観さんの『淡々と生きる』(風雲舎)より抜粋
「淡味」とは初めて聞きました。