「どんな人間も、誰かに助けられて生きている」ということについて、当時私は、生徒に「牛丼」の話をしてきました。
「お前たち、牛丼を食べたくなったら、たとえば吉野家に行くだろう。食べたあとは食事代を300円だか400円だか払うよな。ところでお前ら、そのあと店を出るとき、ちゃんとありがとうと言っているか?」
みな戸惑った顔をしています。
普通、「ありがとう」は店の人がお客に言うものです。
「お前たちもそう思うよな」と確認したあと、話を続けます。
「でも大間違いだ。なぜかといえば、もしあの牛丼が1杯5万円だったら、お前らは食べに行くか?」
当然ながらみな行かないと答えます。
「行かないよな。あれ、一杯数百円だから行くわけだ。ここで、よく考えてくれ。お前たちは今、おなかがすいたという問題を抱えたわけだ。これはお前たち一人ではどうあがいても解決できないだろう?」
子どもたちの反論はわかっているので、すぐにこう言い足します。
「もちろん、コンビニに行くというのもダメだ。なぜなら、そこにあるおにぎりもサンドイッチも自分で作ったものではないからだ。くどいようだが、お母さんに作ってもらうのも同じ理由でダメ。お前たちが普段、何げなく米やパンを食べているが、『なんてラッキーだ』とは思わないか?だって、作ってもいないのに。一人で米を作れるか?稲はどこから持ってくる?台風や害虫からどうやって守る?ビニールハウスでなんていうなよ。ビニールはどうやって作るんだ?ほらみろ。人間は自分ひとりでは空腹を満たすという問題さえ解決できなんだ。でも、その問題解決をしてくれる人がいる。たとえば、それが吉野家というわけだろう。だからあのお金で、あの味のものが、あの短い待ち時間で食べられる。それが極めて有効な問題解決になるから、お前たちは行ってお金を払って食べるんだろう。もし誰かが自分の前にある大きな壁を取り払い、問題を解決してくれたら、お前たちはその人に何て言う?」
「ありがとう」という答えが返ります。
「そう、ありがとうって言うよな。だから、吉野家でお前たちがありがとうって言うのは当たり前だろう」
煎(せん)じ詰めると、仕事というのは問題を解決することなのです。
だから、その問題を解決したときには当然のこととして、解決した相手から感謝の言葉が返ってきます。
たとえば、営業などはじかに人と向き合う仕事だから、直接言葉が返ってきます。
一方で、直接には感謝の言葉返ってこない仕事があります。
経理など社内の事務仕事の場合、相手から感謝の言葉を聞く機会はあまりありません。
でもそういう仕事に携わる人がいるから、ものごとが回っているわけです。
結局、自分が何かをする、行動するというのは、誰かがそれによって助られているということになります。
そして人間というのは、誰かのために力を出すときに最も力を発揮できるのです。
元カリスマ講師、木下晴弘氏の『涙の数だけ大きくなれる!』(フォレスト出版)より
当たり前になってしまっている。
思い違いをしていることあるんでしょうね。
自分の周りを、あらためて見渡してみるのも良いかもしれませんね。