弟子入りのときに、立川談志師匠に言われた言葉。
「修行とは不合理や矛盾に耐えること。前座の役目は俺を快適にすること」
ここは学校ではありません。
また会社でもありません。
つまり、いままで所属していた社会で培(つちか)ってきた価値観だけでは対応できないのです。
ここで、自分のプライドとの勝負になります 。
おそらく立川流を自らやめていった人間の大半が「プライドとの兼ね合いで悩んだ結果」だろうと察します。
「なんでそこまで言われなきゃならないのか」「なんでそんなことまでしなきゃならないのか」という葛藤に耐えられなくなって、やめるのでしょう。
古典落語という「ネタバレ」したストーリーは、なぜプロが語ると面白いのでしょうか?答えは「間(ま)」です。
「間」は早すぎてもいけません。
長すぎても「大間(おおま)」といって好まれません。
ちょうどいいタイミングで処理するからこそ、「いい間だねえ」と評価されるのです。
まさに修行生活とは「間と呼吸」を求められる期間なのです。
要するに「おい、アレ出せ!」と言われたら、「はい!」と即、対応する力です。
遅いのは無論怒られますが、「アレ」という前にその品物を出すと、今度は「なぜ、お前のペースに俺が合わせなきゃならないんだ!?」と、これまた怒りの対象になるのですから、やはり「間」なのです。
さあ、ここで、「修行生活」を「無茶ぶり」と置き換えてみましょう。
前座の後半期、師匠から「いま飲んでるから机の上の原稿を持って来てくれ」とだけ留守番電話に入っていたことがありました。
この短いメッセージを深く吟味し、直前まで師匠と一緒にいた弟弟子に電話し、師匠が懇意の歯医者さんに行ったことを確認。
そしてその歯医者さんに電話をして、助手の方から「歯医者さん行きつけの店」を数店、聞き出し、さらには師匠が好みそうな雰囲気のお店...となると必然的に対象は絞られ、限定されてきます。
そこで、これはというお店に電話をし、案の定、師匠が飲んでいることを確認しておいて、お店の戸を開けて入っていきます。
「よくわかったなあ」と言ったのは、歯医者さんのほうでした。
師匠は、「こいつは、やっとこういう対応が取れるようになったんだよ、なあ?」と当然の顔。
「俺のところにいれば、どんなやつでも使えるようになるんだ」と、自慢げにその歯医者さんに語りました。
「修行」とは「無茶ぶり」、そして「無茶ぶり」とは「修行」なのです。
自分という小さいワクをぶち壊して、さらなるバージョンアップを図るには、「無茶ぶり」しかないのかもしれません。
このバージョンアップによって「対応力」が磨かれるのです。
そう、「無茶ぶり」は可能性のある者に向けられた試練なのです。
立川流真打、立川談慶氏の『落語力』(KKロングセラーズ)より
自分の身の回りに起こる不愉快なことも修行と思えば、気持ちも楽になるかもしれませんね。
そして、心の成長になるかもしれませんね