武道界の長老と食事をしていて、水が入ったグラスを置く位置について注意されたことがある。
私のグラスが手元に近いため、箸(はし)を伸ばすと当たって倒す危険がある、というわけだ。
「何事によらず、予測できるアクシデントは、最初から避けるべし」...これが武道家の心得だと笑っておっしゃった。
このとき、私は塚原卜伝(ぼくでん)のことを思った。
卜伝ほどの達人になれば、世の中、怖いものなしだろうに、卜伝は無益な戦いは避けることを信条の一つとしていたからだ。
こんなエピソードがある。
技量優秀で、そろそろ免許皆伝を与えようかと、卜伝が思っていた高弟がいた。
あるとき、この高弟が馬の後ろを通ったところ、馬がいきなり後ろ足で蹴り上げてきた。
周囲の人たちが危ない、と思った瞬間、この高弟は、ひらりと身をかわしたのである。
それを目にした人たちは、「さすが卜伝先生の高弟だ」と、口々に称賛した。
ところが、この話を聞いた卜伝は違った。
「未熟者め」と言って、免許皆伝を与えなかったのである。
そして、ある日のこと。
卜伝が歩いていて、馬に出くわした。
高弟と同じ状況である。卜伝はどうしたか。
馬のそばを避け、遠く迂回(うかい)して、何事もなく通り過ぎていったのである。
それを見て、なぜ卜伝が高弟に免許皆伝を与えなかったか、みんなは納得した...卜伝のこのエピソードに、長老の注意を重ね合わせ、私は以後、予測できるアクシデントは極力避けるようにしている。
夜、電車に乗るときは、酔っぱらいがいない車両を選んで乗る。
声高に話す行儀の悪い一団は避ける。
飲み屋もしかり。
素行が悪そうなグループの近くには座らない。
会社においてもしかり。
自分の企画に反対意見が出そうだと思ったら、企画を提出するタイミングを再検討する。
丁々発止の意見を戦わせ、よしんばそれに勝ったところで、相手に怨(うら)みを残すのは、長い目で見ればマイナスに作用することが多いのである。
『降りかかる火の粉は避けて通れ、払えば袖に火がつく』これが武道精神なのである。
向谷匡史氏の『武道に学ぶ「必勝」の実戦心理術』KKベストセラーズ
自分の判断、行動が結果として返ってくる。
奢らず謙虚に用心深く、初心忘るべからず。