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ポーランド・日本(2018/06/28)

今晩、日本時間23:00サッカーワールドカップ2018! 
いよいよ日本は強豪ポーランドと対戦ですね。
 
ポーランドは、実はヨーロッパでも屈指の親日国だと知ってました?
ワルシャワ大学には、世界でも珍しい「日本学科」があって、
倍率はおよそ30倍という人気だそうです。
日本語学科ではなく、「日本学科」ですから、
なぜポーランドは、これほどまでに親日なのか?
 
すごく長くなりますが、そのまま引用します。
短くまとめようとしましたが、うまくできませんでした。
いい話です。涙が溢れてしまいました。
 
以下
株式会社 ことほぎ
和ごころコラム 2018/6/26 『惻隠の情が紡ぐ、ポーランドと日本の歴史』より引用
 
 今からおよそ100年前の1918年、第一次世界大戦が終結し、ポーランドはロシアから念願の独立を果たしました。
それまで、長年ロシアの支配を受けてきたポーランドでは、独立を求めてロシアに対して立ち上がった若者たちが、ロシア軍に鎮圧され、シベリアで強制労働に従事させられました。彼らを追って、恋人や家族もシベリアへ…。
そのために、当時のシベリアには、十数万人ものポーランド人が生活していたと言われています。
しかし、シベリアは、極寒の地。冬場ともなれば、マイナス20度、30度は当たり前です。厳しい自然環境の中で、彼らは常に飢えと病気の脅威にさらされていました。
大人でも生きていくのが大変なのに、中には、親を失って孤児となった子どもたちも数多くいました。
その子たちは、この世の終わりとも思えるような、悲惨な状態に置かれていたのです。
 「この子たちを、故国ポーランドに送り届けたい」
そう願う人々の手によって、1919年、ポーランド救済委員会が組織されました。
子どもたちをシベリアからポーランドに送り届けるには、シベリア鉄道を使うのが近道です。
ところが、翌1919年、ポーランドとロシアとの間に戦争が始まってしまいました。
シベリア鉄道はロシアの所有ですから、そのロシアと戦争になってしまった以上、孤児たちがシベリア鉄道に乗ることはできません。
シベリアから東へ、東へと向かい、地球をぐるっとめぐって、ポーランドを目指すしかないのです。
大国・ロシアと交戦中のポーランドには、余力はありません。
そこで、救済委員会は、欧米諸国に孤児たちの救済を依頼しましたが、第一次世界大戦が終わったばかりで混乱と緊張が続くなか、各国の反応は実に冷たいものでした。
そのような状況のもと、ポーランドの人々が最後の望みを託したのが、日本だったのです。
1904年から05年にかけて行われた日露戦争において、ロシアを破った日本。
小さな島国が、10倍以上の国力を誇るロシアに勝利したのです。
その日本の存在は、ロシアに苦しめられてきた人々にとって、大きな希望でした。
この子たちは、ロシアによって長年苦しめられてきた。
そのロシアを破った日本なら、この子たちに救いの手を差し伸べてくれるかもしれない……。
その祈りにも似た願いが、外務省を通して、日本赤十字社にもたらされると、日本赤十字社は、ポーランドの救済委員会に対して、即答しました。
「YES!」 
日本赤十字社は、世界情勢よりも、人道的な支援を、つまり思いやりの心を、優先したのです。
 1920年から22年にかけて、あわせて765人の子どもたちが、はるかシベリアから日本へやって来ました。
シベリアから日本までは、長い船旅です。
船の中の子どもたちは、まだ見ぬ日本に対して、期待よりも不安を抱いていたでしょう。
言葉も文化も違う日本で、どんな生活が待っているのか、そして自分たちはどんな扱いを受けるのか…。
そんな彼らを待っていたのは……、日本人の溢れる善意でした。
多くの人々から義援金が寄せられ、また、衣類やお菓子、おもちゃや人形も届けられました。
歯科治療や散髪のボランティアを申し出る人たちや、歌や音楽で傷ついた子どもたちの心を慰めようとする人たちが、後を絶ちませんでした。
そして、大人に連れられ、お見舞いに訪れた日本人の子どもたち。
その様子を、ポーランドの孤児の一人は、次のように語っています。
「日本の子どもたちは、私たちが寂しがらないよう、一緒に遊んでくれました。
それがとても楽しくて、仲良く遊んでいる間は両親のことも思い出さないほどでした」
楽しい時間は、あっという間に過ぎていきます。
別れに際し、日本の子どもたちは、自分が着ていたチョッキやお気に入りの髪飾りを、そして大好きなおもちゃや人形を、迷わずポーランドの子どもたちに手渡したといいます。
これは、大正時代のお話です。今のように物が豊かだった時代ではありません。
それでも、日本人の心は、こんなにも豊かだったんですね。
日本人が、古くから大切にしてきたものの中に、「惻隠(そくいん)の情(じょう)」があります。
しばしば「思いやりの心」と訳されますが、惻隠の情と思いやりの心は、まったく同じというわけではありません。
思いやりの心を持つことは、もちろん大事ですが、困っている人を見たら、放っておけない、つい手を差し伸べてしまった…。
そんな、やむにやまれぬ思いが、「惻隠の情」なのです。
先人たちが大切には育んできた美徳を、当時は、幼い子どもたちまで共有していたのでしょうね。
看護師をしていた松澤フミさんという若い女性は、腸チフスにかかった子どものそばを、片時も離れませんでした。
当時、腸チフスは、罹(かか)ったら最後、十中八九、死に至ると言われていました。
「この子は、もう助からない。それなら、せめて私の胸の中で死なせてあげたい」
と、フミさんは言っていたそうです。
彼女の献身的な看護を受け、その子は奇跡的に回復しました。
でも…。
松澤フミさんは、この時の看病がもとで、腸チフスに感染し、亡くなったのです。
 また、こんなポーランドの女の子の回想もあります。
「ひどい皮膚病にかかっていた私は、全身に薬を塗られ、ミイラのように白い布に包まれて、看護婦さんにベッドに運ばれました。
その看護婦さんは、私をベッドに寝かせると、布から顔だけ出している私の鼻にキスをして微笑んでくれました。
私はこのキスで生きる勇気をもらい、知らず知らずのうちに泣き出していました」
日本に到着した時、子どもたちは、みな青白く痩せこけていました。
内臓の病気や皮膚病を患(わずら)っていたり、栄養失調になっていたり…。
そんな彼らが、ひと夏を日本で過ごし、人々の愛情に包まれ、まるで別人のように元気をみなぎらせていったのです。
しかし、それは同時に、子どもたちが故国ポーランドに帰る日が近づいていることを意味していました。
「誰もが、このまま日本にいることを望んでいました。
太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に……」
子どもたちは、そんなふうに感じてくれていたそうです。
そして、お別れの日。送られるポーランドの子どもたちも、
見送る日本人も、涙、涙、涙……。
765名に及ぶポーランドの子どもたちは、故国ポーランドに向けて、順次旅立って行きました。
子どもたちを送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、ひとりひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫(な)で、熱が出ていないかどうかを確かめたといいます。「もしお父さんが生きていれば、お父さんの手は、きっとこんなに大きくて温かいんだろうなぁ」と、薄眼(うすめ)を開けて、船長の巡回を心待ちにしていた子どももいたそうです。
 この子たちは、帰国後、孤児院に収容され、それぞれの人生をたくましく生き抜いていくことになります。たったひと夏の経験でしたが、日本人から受けた愛情が、彼らの生きる力になったことでしょう。
「日本人は貧しい。しかし高貴だ」
こう述べたのは、大正10(1920)年から昭和2(1927)年まで駐日フランス大使を務め、詩人としても著名なポール・クローデルです。
クローデルの言葉は、以下のように続きます。
「世界でただ一つ、どうしても生き残ってほしい民族を挙げるとしたら、それは日本人だ」
 そう、私たちのご先祖さまは、こんなにもかっこよかったのです。
世界から賞賛された“美しい生き方”、そしてそのベースとなる心の豊かさこそが、私たちがご先祖さまから受け継いだ最大の財産なのかもしれませんね。
 
1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことに始まった、第二次世界大戦。ポーランドの青年たちは、ナチス・ドイツに対して、立ち上がりました。
リーダーとなった青年の名は、イエジ・エトシャウコフスキー。彼を中心とした一団は、イエジの名をとって、「イエジキ部隊」(イエジの子どもたち)と呼ばれました。
 イエジキ部隊は、もともと彼らが面倒をみてきた孤児たちや、新たにナチス・ドイツの侵攻で親を失った戦災孤児たちも続々と参加し、やがて1万名を数える大きな組織になりました。
これをナチス当局が放っておくはずがありません。
ある日、イエジキ部隊が隠れ家として使っていた孤児院に、ドイツ兵が押し入り、強制捜査を始めたのです。
 このとき、イエジ青年が助けを求めたのは、日本大使館でした。
急報を受けて駆けつけた日本大使館の井上(いのうえ) 益(ます)太郎(たろう)書記官は、ドイツ兵に対してひるむことなく、きっぱりと言い放ちました。
「ここは日本帝国大使館が保護している孤児院です。
同盟国ドイツ軍といえども、勝手な捜査は認められません。子どもたちに謝罪してください」
 しかし、ドイツ兵も簡単には引き下がりません。
「われわれは信頼に足る情報に基づいて捜査を行なっている。たとえ日本国大使館の申し出であっても、容認はできない。お引き取りください」
すると、井上書記官は、イエジたちに言いました。
「君たち、このドイツ人たちに、日本と君たちの信頼の証しとして、日本の歌を聞かせてやってくれないか」
 イエジたちが日本語で 「君が代」、そして「さくら」を大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気(あっけ)にとられ、渋々立ち去りました。
ドイツ兵は、日本がこの孤児院を保護しているのは、どうやら本当のことだと感じ、同盟国である日本への配慮から、手を出さなかったのでしょう。
さて、ここで注目すべきは、なぜ、イエジたちは、「君が代」や「さくら」を歌えたのか、です。
実はイエジたちは、日本赤十字社によってシベリアから救出され、つかのま日本で生活した、あの子どもたちだったのです。
それにしても、彼らがシベリアから救出されてから、20年近くが経っています。それでも、彼らがこの時に日本の歌を歌えたのは、およそ20年という長い間、彼らが日本の歌を歌い継いでくれていたからです。
当時、日本はドイツと同盟を結んでいました。
その同盟国であるドイツに遠慮することなく、毅然とした態度を貫き、イエジたちとの絆を優先したのです。
 
1995(平成7)年1月17日、午前5時46分、関西地方を大地震が襲いました。
阪神淡路大震災です。
あまりの被害の甚大さに、日本ばかりか世界中に衝撃が走りました。
そうした中で、地震発生の翌日に、いち早く救済活動を始めてくれた国の一つが、ポーランドでした。
ポーランドの人々は、日本のために祈りを捧げ、義援金を募るイベントも、各地で開催してくれたのです。
そして、この年の夏、震災で被災した日本人の子どもたち約30名が、ポーランドに招かれました。震災で傷ついた子どもたちの心を癒すために、ポーランド各地での交流やホームステイが行なわれ、また、寄付や協力の申し出も相次いだそうです。
 
ポーランドの人々は、日本の歌とともに、70年以上もの間、日本がポーランドの孤児たちを救済したという事実を、大きな感動と尊敬とともに、語り継いでくれていたのです。
 

 

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